創業前史 ~榊原 仟先生から受け継いだメッセージ~

エンジニアとして出向した病院で榊原 仟先生のもとに過ごした、医療機器のプロとしての多忙な日々。

昭和40年(1965年)榊原 仟先生との出会いの場となる東京女子医科大学日本心臓血圧研究所に出荷される患者監視装置を背景に(三栄測器小平工場玄関前にて)

エムシー代表取締役社長・森 清一は、1963年、計測機器メーカーの三栄測器株式会社に入社し、ME機器事業部に配属、その後、50年以上医療機器分野一筋の毎日を送ってきました。
三栄測器株式会社で電子関係・医療機器設計を担当していた1965年、榊原 仟(しげる)先生が所長を務められていた東京女子医科大学の日本心臓血圧研究所(心研)に出向し、医療現場の近くで仕事に従事することになります。
手術室内で利用する患者監視装置のような特注品を技術サポートするエンジニアとして出向していた森は、早朝から深夜まで、麻酔をかけられた患者に対して心電図の電極をつけたり、血圧を計るセッティングをするなど、榊原 仟先生や若い医師の方々の手術のお手伝いをしながら、製品開発ニーズの汲み上げをする多忙な毎日を過ごしました。

榊原チーム医療の一員としてインドネシアへ。榊原 仟先生から頂いた日本の医療産業への力強いメッセージ。

インドネシア大学附属病院手術室の監視室

病院の出向が終了した後、東京女子医科大学総合研究室で動物実験などを続けていました。1968年の7・8月、開発途上国援助(コロンボ・プラン)として、榊原 仟先生が率いる医療チームが心臓外科指導のためインドネシア大学の医学部に派遣されます。
榊原チームの一員として招集された森は、心臓手術時に必要な主な装置「人工心肺装置」と「患者監視装置」の後者担当となります。
日本の技術をインドネシア大学の手術室で再現するべく、榊原 仟先生・数名の医師・人工心肺業者スタッフで形成されるチームで、40日間の滞在になりました。
その滞在の中で榊原 仟先生がチームに伝えた力強い数々のメッセージのひとつ、「日本の医師として私が世界へ先陣を切る。その後を医療機器産業がついてきなさい」「海外医療機器を100%として日本の医療機器が70%ならば、30%のギャップは私の医療技術でカバーする。その間に追いつきなさい。」という言葉を繰り返し拝聴し、森が働く上での大きな指標となります。

その中で特に印象強い、榊原 仟先生が森に伝えた、「森君、これから高度化する医療機器と医療スタッフとの間の通訳となれ」というメッセージが、エムシー起業の大きな原動力として、森の心に強く刻み込まれました。
当時ではまだ、医療現場には医師、看護婦(看護師)と看護助手のチームしかなく、現在のような臨床技師のようなシステムはまだまだでした。